目からウロコが落ちる話

目からウロコが落ちる話

弊社前会長、齋藤隆による食に纏わることを綴ったコラムです。

第58回 「天ぷらにソースをかける日本人」という本を出版します

「食卓は文化の孤島である」

良く考えてみれば当たり前のことです。この当たり前のことを私達はこれまでずっと見逃してきたようです。その証拠が次の事柄です。

「隣の食卓が分らない」
「世間の食卓との交流がない」

私達の食卓はまるで大海に浮かぶ小さな島のようです。小さな島でも、島同士がお互い行き来し交流すれば良いのですが、全くといって良いほど交流が無いのが食卓という孤島です。
食文化から見ると、これが幸いしたようです。交流のない孤島の文化は温存される部分が多いです。もちろんマスコミや企業広告の影響はあります。しかし日常生活の行動は、潜在的であるがゆえに保守的で習慣的です。「目からウロコが落ちる話」の第50回「都会人に息づく郷土の味」で紹介したように、夫婦の郷里の味が大都会に息づいているのがその証拠です。

21世紀は情報ネットワークの時代と言われています。多くの情報が瞬時に私達のところに伝わります。その逆もあります。一個人のブログがちょっとした切っ掛けで世間の話題になります。そうしたことが良かれ悪しかれ、社会の同時現象を引き起こしています。情報のファッション化です。食の世界もファッション化しています。様々なグルメ情報や食にまつわる事件が私達を刺激しています。
ところで文化は情報と価値の次元が異なります。
情報は変化や目新しさに価値があります。文化は変わらぬことに価値がある場合が多いようです。もっと正確に言えば変わる価値と変わらぬ価値を両立させるのが文化の価値です。

「全く変わらない文化は生き残れない」
「全く変わる文化は文化ではない」

伝統文化とはそうした価値を持っています。骨董に造詣の深かった小説家川端康成氏がある古い民家を尋ねた際、言った言葉があります。少々記憶が曖昧ですが次のようなことを言いました。

「古さにこそ新しさがある。それを見いだすことが大切だ」

今でこそ伝統の典型のように言われている「和風」は、実は革新の建築様式を意味する言葉だったことをご存知ですか?
平安時代の建築様式の主流である「唐様式」に対する、アバンギャルドの建築様式を「和様式」と言いました。貴族文化から武家文化に時代が大きく動いた時期の革新を意味する言葉です。
話はヨーロッパのブランドに飛びます。ヨーロッパには、時代を越え、国を越えて個性的なブランドイメージを上手にアッピールする企業が多いようです。平たく言えばヨーロッパの商品やデザインには「らしさ」があります。「らしさ」がある最大の理由は「変わらぬ価値の哲学」の上に「変わる価値や機能」を、巧みに織り込む知恵と技を持っているからです。

「変わらぬ価値の哲学に、変わる価値や機能を重ねて表現する技」
これを私は「革新的アイデンティティ」と呼んでいます。
「革新」は変化することに価値があります。
「アイデンティティ」は変わることを通じて変わらぬことに価値があります。

アイデンティティなど難しい言葉ですが、アイデンティティは個人の人格みたいなものです。例えば、現在の私は私そのものです。そして小さい時の私も私でした。もちろん現在のように歳をとっておらず、まだ可愛い私でしたが、小さな時の写真を見せると誰もが私とわかってくれます。いろいろな点で変わっているでしょうが、たしかに私であると皆が理解してくれるものがあります。私はこれからも変わるでしょう。しかし私はいつまでも私なのです。
新しさばかり追い求め、古いものを捨ててしまう現代人が一番忘れていることが「革新的アイデンティティ」です。

話を食卓文化にもどします。食卓の孤島は、今、危機に貧していると思われます。島々の交流が無く、変わらぬ価値と変わる価値をどうバランスよく保ち、時代を生き抜いていくかの術が分らない状態です。このままではガラパゴス島のように世界に取り残されてしまいます。一部の商業主義的文化は別にして、私達の食の文化が消えてしまうかもわかりません。
家庭の食卓という小さな島同士がお互い活発に交流を行い、その結果を共有できる場や仕組みをどうすれば作れるのかが、私の関心事です。

今年の9月に小本「天ぷらにソースをかける日本人」(家の光協会)を出版します。この本を執筆しながらつくづく思った事柄があります。

「人は一本の大根と上手にかかわることで、周りの人々や暮らしと豊かに繋がることが出来る。そんな係わり合い方の術が、私たちに今、求められている」
「食のプロ達は、食卓づくりの知恵や術を生活者の目線で学ぶべきである」

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