目からウロコが落ちる話

目からウロコが落ちる話

弊社前会長、齋藤隆による食に纏わることを綴ったコラムです。

第31回 時代の振り子の要で食の未来を予測する

「日本の食生活は、これまでどう進化してきたのでしょう?」
「日本の食生活は、これからどう進化するのでしょう?」
そんなことを、皆さんは考えたことがありますか?
私は職業柄そんなことをよく考えます。私は、今から20年近く前の1990年に日本の食生活の進化のメカニズムを発見し、未来を予測したことがありました。その際、前回お話をした「時代の振り子の要」という「思考のカタ」を使ったのです。今、この予測は案外に当たっているようです。

1.土間の食

戦前の我が国の食生活の価値はどこにあったかと聞かれると、「土間にあった」と答えます。数年前、私が講師をしている大学の講義でこの土間の話を学生にしたとき「先生それって土器の一種ですか?」と真顔で質問した学生がいました。土間とはそれほどに古い言葉になってしまいました。
土間は、かつて家の中にあった唯一の地べたです。土間には食事の支度をするための調理場や流し場があり、竈(かまど)があり、井戸だってありました。食事をする場所は、土間より一段高い板の間や畳の間でした。土間にはコオロギやナメクジ、蜘蛛やヤモリが生息していました。日当たりの悪いスス臭い、陰気な場所でした。

top_column_31_1.jpg

土間は、食事の支度をするための労働の場所でした。土間では、これまた今は死語になった「炊事」が四六時中行われていました。「炊事」は労働を意味する言葉です。
戦前の土間では、家事労働の支配権を巡って大きな対立がありました。嫁と姑の戦いです。嫁は新しい労働勢力であり、姑は古い労働勢力です。上の図表のように、戦前までの食の価値は、嫁と姑という2つの振り子が家事の支配権を巡って土間で対立し、揺れていました。
因みに図の左側が、古い食生活の価値を表す言葉です。右側が新しい食生活の価値を表す言葉です。図の左右の振り子は、食生活における古い価値と新しい価値の対立を表していることをあらわしています。
嫁と姑の対立に主(あるじ)は悩みました。嫁の肩をもてば姑がひがみます。姑の肩をもてば嫁が泣きます。かつてNHKの朝の人気連続ドラマ「おしん」の世界です。家の主は思いました。
「対立する嫁と姑の次元(土間)に、解決の鍵はない」

2.台所の食

土間における対立の解決は、戦後まで待たなければなりませんでした。
土間次元における労働支配権の対立を解決する鍵は、揺れる振り子の要にあると想像します。戦後、食生活の価値が揺れる振り子(土間)から要(台所)に上がったのです。
「食生活の価値が、土間から台所に這い上がることで対立は解決した」

昭和30年代初め、かつての住宅公団(現在の住宅都市整備公団)が、大都市中心に、集合住宅群を建設し始めました。住宅団地ブームが起きました。日本中の若者達は、大都市の団地生活に憧れました。住宅のつくりが洋風モダンです。忌まわしい土間もなくなっています。
台所はキッチンと呼ばれました。食事の支度は、つらい炊事に変わって楽しいクッキングといわれました。アメリカナイズされた住空間が、若い世代の憧れの的になりました。当時のアメリカの人気テレビドラマ「うちのママは世界一」は、親子4人だけの素敵なアメリカンドリームを若い世代に強烈に植えつけました(確か提供は味の素でした)。若者は故郷を捨て大都会へと向かったのです。極めつけは「家付きカー付きババ抜き」でした。戦前の土間次元での労働支配権の戦いに終止符がうたれました。
しばらくして台所次元で、ふたたび振り子が振れ始めました。素敵なキッチンでは、すでにインスタント食品や簡便食品が羽振りを利かせるようになっていました。インスタント食品や簡便食品を使った新しい調理を「手抜き」と言いました。古い調理を「手作り」といいました。台所次元で新たな対立が起き始めたのです。こんどは女房と亭主が対立しました。
インスタント食品が登場したのは昭和35年頃です。現在の大手食品メーカーのほとんどは台所次元に価値があるこの時代に企業規模を拡大しました。
インスタント食品は「調理を簡便化する食品」という意味です。つまりインスタント食品の価値は台所次元にあります。だから食品メーカーがどんな素晴らしい加工食品を作っても、主婦は手抜き意識という後ろめたさが消えません(当時は...)。当然に亭主の不満は増大します。台所次元での振り子の対立は深まりました。

3.食卓の食

台所次元の振り子の対立に解決の兆しが出始めたのは、1980年になってからです。食生活の価値が台所次元から食卓次元へと、さらに這い上がりました。
「台所で手抜きをするか、手間をかけるかに価値があるのではない。食卓で楽しく食べることに価値がある」
現在の家庭の大半がこうした食卓はないでしょうか?。鉄板焼き、手巻寿司、鍋などのテーブル・クッキングが家族団欒料理の代表です。惣菜やテイクアウトも食卓にどんどん登場しています。食生活の価値が、台所から食卓へ這い上がるのを感じたのは、1980年代に入ってのことです。
1979年(株)アサヒビールが「ミニ樽」を発売し、世間の注目を浴びました。3リットル入りのミニ樽は、ビール業界の生樽合戦を引き起こしました。このミニ樽が流行った理由に、食生活の進化が深く関係していると私はにらんでいます。
「食生活の価値が、台所次元から食卓次元に進化した」
ミニ樽は大勢が集まるパーティ用のビールです。3リットルのビールを1人で晩酌するほどの飲べいは少ないです。もし台所に価値がある時代のホームパーティならば「お~い。母さんビールはまだか」となります。主婦は客が来ると大忙しです。冷蔵庫からビールを取りだしテーブルまで運び、その間に料理も出さなければならない。この有様は人気漫画のサザエさん家のフネさんをみればわかります。お客や家人のために、台所とテーブルを行ったり来たりしなければなりません。
「もうイヤ!私だって楽しみたい」
そこに登場したのがミニ樽です。テーブルの上にドン!
「後は皆様、ご勝手に」
これが意外にも亭主に受けました。注ぐのが楽しい。パーティ感覚いっぱいです。1979年に、食生活の価値が台所から食卓に這い上がったのです。
「加工食品」の言葉の意味を解釈すれば、食品メーカーの製造に価値を置いた言葉です。先ほどもお話したようにインスタント食品は、台所の調理に価値を置いた言葉です。ある食品メーカー団体の集会でいったことがあります。
「消費者は加工したものを食べているのではありません。調理したものを食べているのです」。
会場は大笑いでした。しかし笑ってすまされるものではありません。今の食品メーカーの多くは、いまだに台所に価値をおいたビジネスしかしていません。およそ文化と無縁な食品メーカーや食品スーパーのなんと多いことか!

1990年代に入り、食卓次元では解決できない事柄が多く発生し始めました。主婦の社会進出は今や当たり前です。少子高齢社会はすでに始まっています。手間をかけた食事の支度をしても家族が揃わない。独り暮らしでは家族団欒の食卓は困難です。
1985年に「なぜひとりで食べるの」というショッキングな本が出ました(NHK出版)。世界各国の子供たちに、自分の食卓シーンを絵で描いてもらった調査です。この調査結果の中で抜きん出て弧食シーンが目立ったのが日本の子供たちでした。食卓を囲む家族の顔が見えず、テーブルの料理だけが大きく描かれ、自分自身を後ろ向き姿で小さく描いている小学生の絵が印象的でした。
1995年、この本の後日談である「子供たちの食が危ない」という番組がNHKのテレビで放映されました。これまた子供たちの弧食の恐ろしい実態リポートでした。
確かに、独りで食べることはお勧めではありません。しかし我が家の息子や娘を見ていると、親と一緒に食べるより、たまに独りで食べることを楽しんでいる風です。嫌でも、独りで食べなければならない時がやってきます。2010年には家族と子供で構成する家庭を、独り暮らし世帯が抜くことが予測されています。そんな時代に「家族団欒の食卓こそ1番だ」ばかりも、言っていられません。食卓次元の振り子は「団欒食」と「ばらばら食」の間で、再び大きく振れ始めました。

さて、20年前は21世紀の食の予測として、振り子の要が「食卓次元」から「社交」へと、さらに進化するという予測をしました。ただ最近、予測を少し変えました。振り子の要の「社交」を「外部化」に修正し、「外部化」を21世紀手前の1995年としました。そして21世紀の「時代の振り子の要」をもう一段上に設けました。「地域」です。

top_column_31_2.jpg

4.外部化の食

1990年代中頃になり、振り子は食卓次元で「団欒の食」と「ばらばらの食」の間を大きく振れ始めました。振れる振り子の良い関係を結ぶために、振り子の要を、食卓次元より1段高い外部化次元に上げる必要が出てきました。家庭内食を惣菜やケータリングなどの外部サービスに頼る時代の到来です。1995年頃、アメリカからミール・ソリューションというキーワードが入りました。家庭の食卓づくりを外部サービスに依存し、食事問題を解決しようという動きが現れました。この動きは家族の生活サイクルに、家庭機能がついて行けなくなったことの現れでした。ホテル家族なんて言葉も流行しました。
惣菜産業や中食産業等、外部化に係わる新しいビジネスが次々と誕生しました。家庭機能が外部化する中で、家族の食は解体され、個の食に関心が集まりました。
食の外部化は必ずしも満足のいくものではありません。それは惣菜を考えればわかることです。大手惣菜メーカーが生産販売する惣菜のクオリティは家庭調理のクオリティに比べ高くありません。健康面や栄養バランス面でも問題が多すぎます。それに価格が高い。特に問題なのは外部サービスに心が入っていません。だからサービスを受ける消費者の心は満たされません。食の価値は心の次元にまで進化しているのです。
満たされない心の振り子は、外部化次元で再び触れ始めました。外部化次元で、「社交」と「孤独」という心に関わる2つの振り子が対立しました。

5.地域の食

これから本格化する少子高齢社会は、これまで誰も経験したことのない前人未到の社会です。未知の社会に対する「人々の不安」が増大しています。
子供たちが巣立った2人暮らしの夫婦にとって一番の問題は夫婦関係です。ぬれ落ち葉のようにまとわりつく夫のために、毎日のように食事を作ったり、四六時中、夫と顔を付き合わせなければならない妻の苦労は並大抵ではないらしい。中高年家族には家族団らんとは異なった「心の触れ合いの場」が必要です。
2010年には3世帯に1世帯がシングルスで占められます。そのシングルスの多くは中高年です。中高年シングルスにとって一番の関心ごとは健康と人との繋がりです。このコラムの12回目「豆腐とパンツ」で、世田谷の豆腐売りのお話で、人と人との繋がりの大切さをお話しました。以下に、最後の文章を再掲します。
『この体験談の意味は深いと思いませんか。消費者が欲求を生じる際には、必ず「きっかけ(=接点)」があります。そのきっかけは決して商品に対する欲求だけではないのです。商品を通じて、あるいは商品を買ったり使ったりする体験を通じて、自分の生活を豊かにしたいという欲求があるからです。
今の世の中「当たり前のことが当たり前にできること」の大切さをしみじみ感じます。お互いが繋がり合ったり、幸せな生活に導いてくれる商品を求める人々が増えています。
...略。
アメリカでは最近「weakties」(弱い絆)というキーワードに関心が集まっているようです。弱い絆が新しいコミュニティをつくる時代がやってきます』。

小子高齢社会の食の価値は、外部化次元から地域次元へと一段高くなるでしょう。地域には外部化にはない繋がりの価値があります。地域の繋がり、地域生活機会が、食生活に多くの「壁」をもつ高齢者やシングルスの「社交」と「孤独」の良い関係を束ねてくるでしょう。そして地域次元の価値を提供できる企業に注目が集まるでしょう。これに関わるキーワードをいくつか挙げておきましょう。現在の大手企業が苦手なキーワードばかりです。

  • 馴染みの店、ご近所の台所
  • 普段使いのライフスタイル
  • トランスフォーメーション、生活変換

食に関するコラム 目からウロコが落ちる話の一覧に戻る

ページトップへ戻る