食彩事記

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第6回 そうめん

image_200607_1.jpg7月の代表的な行事といえば、7月7日の「七夕」ですね。
一年に一度天の川を渡って牽牛星(けんぎゅうせい)が織女星に逢うという伝説は、昔から人々の心をときめかせてきました。「万葉集」にも百首近い「七夕」の歌が残されているようです。
そして、この「七夕」とかかわりのある食べ物のひとつにそうめんがあります。
今回はこの「七夕」と「そうめん」の関連について調べてみました。

「七夕」の由来

七夕まつりは、中国の乞巧奠(きっこうでん)や日本古来の祖霊まつり等様々な要素により生まれた行事です。
中国の乞巧奠の伝説とは、天帝の娘である織女の話で、器用で働き者の彼女はいつも機を織り、美しい天衣を織りあげていました。天帝は、独り身の彼女を、天の川の西に住む若い美しい牛飼いの青年と結婚させました。結婚すると、二人は彼女は機織(はたお)りの仕事をやめてしまい、男も牛を飼うことをやめてしまい遊んでばかりいました。これを見た天帝は怒り、彼女を天の川の東へ連れ戻しました。引き裂かれ、泣き暮らす二人を、天帝もさすがに哀れと思い、一年に一度、七月七日の夜だけ逢うことを許したと云うものです。
一方、日本古来の行事としては、棚機津女への信仰にも由来する行事で、女の子は髪を洗い、神に供える食器類をきれいにすることで罪穢れを水に洗い流すという行事でした。
さらに農村においては盆行事の性格が加わりガマやマコモで「七夕馬」を作って屋根の上に置き先祖の霊を迎える行事がとり行われました。
また、七夕の日には、笹の葉からとった朝露で墨を摺り、裁縫や書道などの上達を祈願して笹に結びつける習慣があり、この習慣が町人社会に広がるにつれて次第に願い事や歌を書いた短冊や星などを飾り、花や団子、瓜、なす、そうめんなどを供える儀式に変化していき次第に現在のような形式となりました。

そうめんの伝来と「七夕」との関わり

そうめんの始まりは、今から約千三百年前、大神神社の第12代の宮司、従五位上大神朝臣狭井久佐(おおみわのあそん・さいくさ)の次男、穀主(たねぬし) が、三輪の里の肥沃な土地と三輪山から流れ出る巻向川と初瀬川の清流が、小麦の栽培に最も適するのを知って種を蒔かせ、小麦粉を原料に「そうめん」を製造したこととされています。そうめんは乾燥させて作るため保存食としても有効で、当時飢饉に苦しむ人々を救った話も残されています。平安時代醍醐天皇の頃、宮中の儀式や作法を集大成した法典「延喜式」が制定(927年)されたとき、旧暦七月七日の七夕の節句にそうめん【索餅】をお供物(おそなえもの)とするよう定められ、この習慣が一般に普及したことから七夕にそうめんを供えられるようになったようです。
なぜそうめんなのかについては「小麦の収穫を神に報告」、「夏に栄養価の高いそうめんを食べて健康増進をはかった」、「七夕伝説からそうめんを天の川に見立てた」など諸説あります。
また、七夕にそうめんを食べると厄除けになるとの言い伝えは、極寒の頃できたそうめんを蔵で梅雨までじっくり寝かせることを「厄」といい、このことからそうめんを食べると「厄をこす」ことが出来ると言われるようになったとされています。

編集後記

image_200607_2.jpg新橋駅から中央道りを歩いて5分くらいの所に老舗そうめん店の営むアンテナショップがあります。
店内で使用されるそうめんは全て「ひね(古)もの」と呼ばれる限られた時期に生産、倉で一年間寝かせて熟成させたものです。そのため、腰がありのどごしのよいそうめんでした。また、「デミグラスソースそうめん添え」やとうもろこしの芯にそうめんを見立てた「そうめんのもろこし揚げ」等そうめんを使った新しいメニュー提案もされています。
7月7日はそうめんの日と七夕ということもあり、7月31日まで「七夕コース」が提供されています。

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